『覚悟の磨き方 超訳 吉田松陰』より

長崎県の雲仙・普賢岳の大火砕流から今日で22年ですね。
先日、ふもとの町を通りましたが、あの頃からは

想像できない程、静かな風景でした。

******************************

 

村下村塾で有名な、吉田松陰氏。
今朝Facebookで見つけた記事を転載させて頂きます。
(やや長文です)
ストレスケア「教育」に携わるひとりとして、憧れてしまいます。

 

******************************

 

 「1分で感動」http://1kando.net/11420 より

 

yosida

時代は、鎖国のまっただなか。
日本がかたくなに孤立状態をつづける一方で、アジアは次から次へと欧米諸国の植民地になっていた。

 

あの強かった中国までも、西洋化の巨大な波に呑まれて、諸外国に道をゆずりながら生き延びようとしていた。
日本にも転機がやってくる。
1853年、ペリーが黒船を連れてやってきたときのことである(この事件から明治維新までを幕末という)
開国させるためには、圧倒的な技術力の違いを実際に見せつけるのがいいだろう。
そう考えたペリーがいきなり大砲3発を威嚇発射すると、江戸(東京)はまさに天地がひつくり返るような騒ぎになった。
そのとき江戸幕府と言えば、すっかり沈黙してしまっている。
刀じゃ大砲に勝てるはずがない。
日本はもうおしまいだ。

武士から農民まで誰もがそう確信し、眠れない夜がつづく中でただひとり、西洋を追い抜いてやろうと意気込んでいる若者がいた。
吉田松陰、25歳。
兵法の専門家であった彼は、しばらく「どうやって西洋を倒そうか」虎視眈々と作戦を立てていた。
だが実際に黒船の大砲を目にすると、急にこんなことを思いはじめた。
これは勝てない。
松陰の頭の切り替えは早かった。
いくら敵意を燃やしたって、日本を守ることはできないのだから、むしろ外国のやり方を学んだ方がいい。
発想を逆にしてしまったのだ。
鎖国である、海外渡航などすれば、もちろん死刑である。
だが松陰はそんなことは気にしない。
翌年、再び黒船がやってくると
「日本にとって今なにが1番大事なのか」を明らかにし、すぐさま思い切った行動に出た。
松陰はこう言い残している。
「今ここで海を渡ることが禁じられているのは、たかだか江戸の250年の常識に過ぎない。
今回の事件は、日本の今後3000年の歴史にかかわることだ。
くだらない常識に縛られ、日本が沈むのを傍観することは我慢ならなかった。」

彼はすばらしい戦略家だったが、こういうときはろくに計画も立てなかった。
「動けば道は開ける!」とばかりに、小舟を盗むと、荒波の中をこぎ出していって、そのまま黒船の甲板に乗り込んだ。
突然の東洋人の訪問に、アメリカ艦隊は驚いた。
無防備な侍が、法を犯し、命がけで「学ばせてくれ」と挑んでくる。
その覚悟と好奇心の異常ぶりを恐れたのだ。
同時に、日本の底力を思い知った。
そして吉田松陰のこの小さな一歩が、後の「明治維新」という大きな波を生むことになる。

密航で捕まった後の松陰は仮釈放されると松下村という小さな村で塾をはじめることになる。
下級武士の子どもが集まる松下村塾に教科書はなく、まともな校舎すらない。
だから教科書は夜を徹して、弟子といっしょに書き写し、校舎も弟子たちとの手作りで最低限のものをこしらえた。
10畳と8畳の二間しかない塾。
そこで、吉田松陰が教えた期間はわずか2年半である。
そんな松下村塾が、高杉晋作や伊藤博文(初代総理)をはじめとして
品川弥二郎(内務大臣)
山縣有朋(第三代/第九代総理)
山田顕義(國學院大學と日本大学の創設者)を送り出した。
結果的には、総理大臣2名、国務大臣7名、大学の創設者2名、というとんでもない数のエリートが「松下村塾出身」となった。
こんな塾は世界でも類を見ない。
松陰はなぜこんな教育ができたのだろうか。

松陰は「いかに生きるかという志さえ立たせることができれば、人生そのものが学問に変わり、あとは生徒が勝手に学んでくれる」と信じていた。
だから一人ひとりを弟子ではなく友人として扱い、お互いの目標について同じ目線で真剣に語り合い、入塾を希望する少年にはこう話した。
「教える、というようなことはできませんが、ともに勉強しましょう」